福島県の自分の出身大学の校友会便りにこれから載る文章です。
「震災から3年を迎えて」です。
写真は文中に出てくる農家の青年と自分です。
彼は東和でなめこをつくっており、レストランも経営してます。
自然な食品を取り扱っているレストランなため人気もあります。
もしよろしかったら利用してみてください。
季の子工房
震災から三年を経過して、当初震災があった時を振り返ってみました。
震災当初は診療中で大きな揺れがありましたが、自院においては大きな物が倒れることもなく患者さんを落ち着かせた後、何度となく繰り返される余震の中で何事もなくのん気に診療を行っていました。
数時間たって待合室のテレビから流れるニュースによって、この地震が本当に大きな震災であって、宮城や福島の海岸の方では津波による行方不明者や死傷者などが出ているということがわかりました。とり急ぎスタッフを帰らせその後、自分と同じくのん気に来院
してくれた患者さんを自分一人で診ました。
それから数日してからが大変でした。
流通が途絶えてしまっているので食料やガソリンが手に入らないためにスタッフが診療所に通って来れず、診療所はしばらく閉鎖、政府の情報が正確ではないため、原発による放射線がどの程度の被害を与えているのか分からず、不安におびえながら数日過ごしたのを今でも覚えてます。
震災発生から数日して地震と原発の影響により浪江、相馬の方から多くの方々が自分の住んでいる二本松市に避難してくることになり、医院からほど近い体育館にも多くの避難者が来られました。
体育館は歩いて行ける距離にあり、そして医院も閉鎖中でありため、自分で何か出来ることを考えました。(当時は地域の歯科医師会も混乱しており、機能が回復するまでに一ヶ月ほどかかりその後分担して各避難所を廻ることになります。)
訪問診療用の鞄に色々な治療器具や薬品等を詰め込んで、恐る恐る単身体育館のドアを開けました。息苦しくなるような 段ボールと毛布が敷き詰められた空間で、多くの方が所狭しに座っておりました。
市の担当者に声をかけて頂き、義歯が痛い、歯がしみる、被せ物とれたなど6名ほどの方の歯を見せて貰いました。
皆元気そうでしたが、当然ながら慣れない地での避難生活にどこか疲れている様子の方々が多かったです。
治療をした中の一人に自分の父親位の年齢の方おり、聞けば家も何もかも流されてしまったとのことでした。診ると義歯が当たって痛いらしく、歯肉が腫れていて何日も我慢をして食事をされていた様子で、すぐに義歯の調整をしたところ、「なんとも無くなりました!」と言われました。お互いほっとしていたところに「先生、こんなところまでわざわざ来て貰って本当にすみません。感謝します。ありがとうありがとう」と言われました。これには涙が出そうになり、
自分がいかに幸せな立場にいるかを痛感させられました。
その日を境に医院が再開するまでの間、何カ所かの避難所を巡り、自分で対応できる治療を行っていきました。食料やガソリンなどの流通が復活して、生活
が落ち着いてからはいつも通りに来院される患者さんと避難所から来院される患者さんを忙しく診る日々が始まりました。
3年という月日がたち、最初に自分が徒歩で訪れた体育館は今は仮設施設になっており未だに多くの浪江や相馬から避難された方々が暮らしています。
自分の診療所には現在でも仮設施設から来られる方や避難解除が終わって相馬や浪江に戻ってからも未だに通ってきて頂いている患者さんもいます。
震災から3年経過して、自分の目から見ると未だに原発の汚染水の問題、風評被害、除染問題、がれき問題等、ほとんど何も変わっていないように思えます。皆が色々大変な中それでも何不自由なく仕事が出来るのは自分の職業が歯科医師だからなのでは無いかと思います。自院にも様々な患者さんが来院されますが、その中でも農業を営んでいる方は本当に大変な思いで生活をしていると伺いました。
つい先日、東和で農業を営んでいる友人から話をする機会がありました。
20代である彼は放射能と風評被害の影響によって作物を作ることさえままならず、作ったとしても作物の価格は下がる一方であるため廃業も考えたそうです。しかし彼は思いとどまり、作物を作らなければ、作物を作る土壌が台無しになってしまうため、売れないにもかかわらず作物作りを始めました。
今は東電と国からの賠償があるため作物が売れなくても生活は出来るが、 賠償がいつ打ち切られるかも分からない、今のまま作物を作っていてもいずれ生活が出来なくなる可能性がある。
行政も大きくは頼りにはならない、そう考えて取った行動は、福島で真面目に農業に取り組む方々と風評被害に打ち勝つために小さなグループを作ることから始まりました。
現在はそのグループの仲間達で県内や県外で真剣に農業に取り組んでいる農家を見学したり、県内の消費者を相手に「消費者に見える農産物」という目標を掲げ啓蒙活動を初めました。まずは県内の消費者に安心して地元の農産物を食べて貰いたいと、震災前よりも真剣に考え取り組んでいると教えて頂きました。
彼の様に若ければそういう取り組みも可能かもしれませんが、福島の先行きの不安ゆえ農業を廃業してしまう方、農業を続けていても不安を感じている方など、農業だけで無く福島に生きていく方々は少なからず不安を持っていると思います。
そういう方々に歯科医療を通して今後どう接していくべきかが医院にとってお課題なのかもしれないと感じました。
自分がこの三年間に医院で取り組んだことと言えば、ガイガーカウンターを早期に取り入れ希望患者への貸し出しや、放射能に関してのわかりやすい資料の配付、避難所から来られる患者さんへ診療時間を長く取ることで話を聞き不安を少しでも取ってあげるように自分とスタッフで対応しました。そして、自分自身さらなる歯科治療の知識や技術の向上をするために多くのセミナーやスタディグループに参加しました。
農業と医療は職業という面で見れば違うものではありますが、人に密接に関与している職業であるということにおいては切っても切り離せないものだと思います。
こういう震災という大きな災害にあったからこそ、農家を営んでいる彼も歯科医師である自分も自分の住んでいる地域を震災前に比べて色々考えることが出来るようになったのではないかと思います。そして福島で生きるために自分のためにそして周りのために色々行動を取るきっかけになったのかもしれません。
福島は3年たってもまだ何も進んでいないように感じられるかもしれませんが、そこに住んでいる人々は少しずつ明日に向けての一歩を確実に踏み出しているのではないかと思いました。そして他の県の方よりも少しだけ周りの人に優しく出来る県民になったのではないかと思ってます。
いつか震災前以上の福島になることを願って日々頑張っていきたいと思います。